会社のなかには目には見えない「ヨコのカベ」があります。同じ会社であっても、部署が違えば考え方も違います。
たとえば「営業」と「開発」、「本社」と「支店」、「人事」と「現場」。事業の目的は同じはずなのに、互いの事情によって言葉が通じず、すれ違いが生まれる……。
誰にでも、そんな経験があるでしょう。
部署を超えた「ヨコの巻き込み」で大切なのは、まず「相手の前提に立つ」ことです。
そんな事例を見ていきましょう。
岡本 義郎(おかもと・よしろう/30歳)
新栄エンジニアリング営業部。入社7年目
水原 武史(みずはら・たけし/35歳)
同社技術部の課長。岡本の5年先輩
山本 沙織(やまもと・さおり/30歳)
同社施工管理グループリーダー。岡本の同期
【起の章】 営業部門の要請を断る技術部門
「これは、絶対とりたいな……」
新栄エンジニアリング営業部営業二課の岡本義郎は、見積依頼書を机に広げたまま、しばらく動かなかった。
依頼主は、大手設備工事会社・菱光冷熱工業。首都圏で計画されている十八階建て分譲マンションの給排水設備工事について、見積への参加を打診してきたのである。
受注できれば数億円規模。今年度では最大級の案件だ。
営業としては、何としても受注したい。これがとれれば、今期の予算は余裕で達成できる。
入社して七年目。今年、三〇歳になる岡本は、二課ではホープとして期待されている。
そろそろ課長への昇進も見えてきているだけに、菱光冷熱との関係も確かなものにしたい。
その意味でも、この案件は大事な試金石とも言えた。
「絶対とりたい。だけど……」
そのためには社内の協力が欠かせない。技術部門に、ぜひ了承してほしい。しかし……。
岡本は懸念を頭から払うように見積依頼書を手に立ち上がると、三階にある技術部へ向かった。
技術部では、施工管理担当が電話をかけ続けていた。
「はい、来週から入れる職人さんを探していまして……」
別の机では、設計担当がモニターいっぱいに広がる配管図を見つめている。
岡本は、緊張した空気を感じながら、水原武史課長の席へ歩いていった。
「水原課長、少しお時間よろしいですか」
「おお岡本、どうした?」
岡本は見積依頼書を差し出した。
「菱光冷熱さんから声をかけてもらいました。十八階建てマンションです。ぜひ参加したいんですが、ぜひ協力をお願いしたいのですが」
水原は依頼書に目を通したあと、小さく息をついた。
「……これはいい案件だな」
一瞬、岡本の表情が明るくなる。
しかし、続く水原の言葉は、期待したものとは違っていた。
「でもなあ、ちょっと今は無理だな」
水原は見積依頼書を机の上に放った。
「知っての通り、施工管理が足りないんだ。設計担当も今の案件で手いっぱい。協力会社にも声をかけてるけど、どこも人がいないんだよ」
岡本の懸念は、まさにそれだった。深刻な人手不足。都心部での大規模再開発が目白押しの現状で、施工に関わる技術職は、奪い合いの状態が続いている。営業の岡本も、事情はよくよく理解していた。
水原は五年先輩で、昔から面倒見がいい。
後輩にも丁寧に接する人だ。
だからこそ、「無理です」という言葉は、本当に無理なのだとわかる。
「この案件を受けてしまうと、今動いている現場に大きなしわ寄せがいく。そうなると、品質に影響しかねないし、納期も守れなくなるかもしれないな」
水原の表情には、「受けたくない」のではなく、「受けられない」という苦しさがにじんでいた。
「状況は理解しています。そこをなんとか、と言うことしかできません」
水原は顔を上げた。表情が険しい。
「……営業はいつも〝そこをなんとか〟というけどな。そんなに自分の数字が大事か?」
「いえ、そういうわけでは……」
「少々の無理ならなんとかする。だけど、その少々が今はできない。こっちの身にもなってくれないか?」

決裂だった。
頭を下げて、岡本は水原の元から離れた。
帰り際、外から戻ってきた山本沙織とすれ違った。
「岡本くん、いい話を持ってきたの?」
理系女子の山本は同期。施工管理の腕は確かで、グループリーダーとして現場を統括している。
「十八階建て、一二〇戸のマンション。元請けは菱光冷熱」
山本は腕組みをして考え込む。ものの十秒で顔を上げた。
「今は無理だね、きっと。案件としては魅力的だけど、人を集めるのが難しい」
「水原さんにも、そう言われたよ」
片手を顔の目にさっと上げ、ごめんという表情を残して山本は去った。
だめ押しを食らった気分で、岡本はエレベーターのボタンを押した。
諦めきれない岡本は、営業と技術、それぞれの同期が集まる金曜の飲み会で悩みを打ち明ける。同期の一人が、ある人物の名前を口にした ――
監修=渡邊篤史
執筆=間杉俊彦

